母が亡くなって1年経ちました。
ミモザが好きな母の為に、数年前から近所にミモザがきれいに咲く
この画像のお宅に、毎年、図々しくもミモザをもらいに訪ねていました。
昨年、このミモザを数日楽しんで、母は天国に逝きました。
今年、母がいなくなって ミモザをいただきに行くのは もうやめようかと
思いましたが、やっぱりこの家の前を通ると どうしても、母に(母の遺影)
見せたくなり、今年も、訪ねました。「母が亡くなったのですが、大好きなここの
ミモザを見せたくて・・・」というと、家主さん夫婦は、満面の笑顔で
「好きなだけ お母様に持っていてあげて!」と言ってくれました。
今年は、これまた図々しくも、よく切れるハサミを持参しまして(笑)
僕の家だけでなく、家族にも、配りました。
母が僕の前からいなくなって1年。
母を忘れた日は1日もありません。
それどころか、うっとうしいほど、母と会話をしています。
朝「おはよう」から帰宅の「ただいま」寝るときには「おやすみ~」
嬉しい出来事や愚痴や、言い訳も ブツブツ言っています(笑)
僕の母への想いは、一般的ではないと思います。
マザコンとも違います。なぜなら、母がいなくては何も出来ないわけでもなく
母以外を愛せないわけでもないからです。
うまく表現するとすれば 魂の繋がりなのかもしれません。
その関係が たまたま母親と子ども という関係であっただけで・・・。
母が何を想い、何を考えているのか いつもわかっていました。
そして僕は、子どもの頃から 母を守り、母を笑わせてあげたいということばかり
理屈ではなく使命のように感じていたのかもしれません。
といっても母と一緒にいること自体が
笑ってしまうことばかりで、一緒にどこにいっても、何をしても
面白すぎて楽しすぎて幸せだったんです。
カウンセリングでのクライエントさんの話も、母は、とても興味を持って
聞いてくれて気になるクライエントさんの「その後 どうしてる?」とか
特に子ども達のことになると胸を痛めながら、気にかけていました。
母は、そんな僕の仕事を常に喜んでいて、
施設にいるときも、入院しているときも、自宅で訪問看護師さんにも
美容師おばさんにも、会う人会う人みんなに、僕のことを
「この子は、沢山の人を助けてあげているのよ」
と そんなこと言わなくていいよ~という僕の言葉は無視して
いつも自慢をしていました。そのくせ カウンセラーという仕事の名前を忘れて
「あなたの仕事はなんていう名前だっけ?」と毎回聞かれ、紙に書いてベッドのそばに
張り付けたこともあったっけなぁ・・・・(笑)
いつも、絶対の味方でいてくれた母。
亡くなってから、不思議なことが沢山起こりました。
去年の夏に、弟が くも膜下出血で倒れました。レベル5のひどい状態で
生死を彷徨った中で、母は、息子を助けました。あなたには、家族がいるのだから
こっちに来させるわけにはいかない!と まだ天国のしきたりもわかってないだろうに
母の恐るべし愛情というパワーで 弟は、誰がきいても、ネットを見ても
生きても後遺症が絶対に残ると書いてあるほどのレベルなのに、その後、数回の手術を行い
今は、仕事に復帰しています。そして後遺症もほとんどなく元気でいます。
これは「奇跡」 一般的には「奇跡」だろうけれど
僕は、母の力だろうなと信じています。
その後、次々と 母は、僕たち家族の ヘルプ!を聞いてくれます。
甥っ子のお嫁さんが妊娠中の時、なかなか逆子が直らず、帝王切開の手術日まで
きまっていたのですが、僕が母に「ねぇ、逆子をクルっと直してやってよ」と
何度かお願いしていたら、最後の病院の健診のときに、逆子が直っていて
無事に自然分娩で女の子を出産しました。
もうこれは 母の生まれ変わりなんじゃないかと僕は密かに思っていて
可愛いその子を抱くたびに、目が合うと これ綾ちゃん(母の名前)じゃないの?
と語っています。
そんなふうに、母は、この1年 家族の危機や、寂しさを癒すために
生前より忙しく動き回っていたと思います。
体についてた管もなくなって身軽に あれもこれもやらなきゃ!と
僕や、家族の為に、奮闘してくれました。
そうやって これからも きっとサインを送って叱咤激励をしてくれるでしょう。
楽なことばかりをさせてくれる母ではなかったので
母の名言は「石にかじりついてでも頑張りなさい」だったので・・・。
だから、僕は、楽しいことと同じだけ頑張らなければいけないと
常に思っています。
母が僕の生き方や僕自身を楽しみにしているので
律紀らしい人生だったね とあの世で再会したときに
言ってもらえるよう・・・。
今日のブログは、思いっきり
個人的な想いが満載のものになってしまいましたが 最愛の母のこととなると
どうしても、熱く語ってしまいます(笑)
お許しください。
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