どちらでもいい
友達は多くても少なくてもいい
本音を話せる人がいるなら
年収は高くても低くてもいい
幸せに過ごせるなら
家は広くても狭くてもいい
自分に合っているなら
モノを増やしても減らしてもいい
大切なものがわかっているなら
頭が良くても悪くてもいい
まわりを喜ばせられるなら
性格は明るくても暗くてもいい
個性のひとつだから
化粧は厚くても薄くてもいい
自分の魅力が伝わるなら
子どもは褒めても叱ってもいい
愛情が伝わっているなら
夢は小さくても大きくてもいい
叶えられるなら
人生は短くても長くてもいい
本当に後悔しないのなら
(そのままでいい)より
時々 ブログで 人生指針のような本から 抜粋して
こうして 書くことで ブログをみている人に
伝えながらも 自分自身に向けて 「そうだよね」と再確認しています。
僕自身、この年になって ぶれなくなったので
自己啓発的なものには、左右されず、求めなくなったけれど
時々、確認するような感覚で「そうそう、そうだったよなぁ~」なんて
叱咤激励されることがあります。
母が生きていたころは、その役割が母親で
褒めてもくれたけれど、叱ってもくれました。
この上の文章にも、子どもは褒めても叱ってもいい 愛情が伝わっているなら。
とあるけれど、まったく その通りで、僕自身は、叱られても そのときは
あー言われちまった・・・・と思うけれど、必ず、その「愛ある叱り」は
あとになって、自分の良くないところを直そうと必ず思ったものです。
子どもは、叱る人に愛があるかないかをわかっています。
親だけでなく、学校の先生、隣のおじさん、血縁があってもなくても
その人が自分をどれだけ想ってくれているかを感じて入れば素直に謝れなくても
叱ってくれた人を恨んだり嫌ったりしません。
だから、叱るときには精一杯相手を想って言わなければいけないのです。
僕には、めいっぱい叱ってくれる人が もういません。
というか、愛情たっぷりに叱る人がいないという方が正しいのかな。
だからこそ、自分で、内観して振り返ったり、その場で立ち止まって考えたり
精進していくだけです。
このブログをみて、叱ってくれる人がいるとしたら
それは それは 実は幸せなことなんです。
褒めてくれる人は、社交辞令もお世辞も含めて沢山いることでしょう。
けれど、叱るという行為は、誰でもできるものでもないのです。
相手に嫌われたくないから言わないって人も沢山います。
それでも、それを超えて言ってくれる人が 本当の思いやりと優しさを持った人です。
さぁ、今日も 後悔しない1日を過ごそう。
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