三つ子の魂百まで
これは、調べると
3歳ごろまでに形成された性格は100歳まで変わらない、という意味を持つことわざです。
また、江戸時代の庶民には「心の有り方は3歳までに決まる」と認識されていました。
このことからもわかるように、きちんとした人間に育つためには3歳までの教育が重要になるといえます。
と書いてあります。
僕は、2歳から6歳くらいまで
アメリカNYに住んでいました。父親の単身赴任で父はNYに行っていたのですが、家族は同行してはいけないという
会社の決まりで母と僕と姉は、父の実家に身を寄せることになったのですが
母が日本で姑、舅にあまり良い扱いを受けず
耐えられなくなって幼い僕と姉を連れてNYへ行ったのです。
父の弟が(僕の叔父さん)パスポートをとってくれたり
飛行機の手続きやらをしてくれて協力してくれて助かったのですが
今、思うと、末っ子で忍耐強い母親がそんな大胆な行動に出たのだから
よっぽどつらかったんだろうなと察したりします。
傷心気分でたどり着いた異国のNY
ここに来て、
好奇心旺盛の母親は、NY生活がめちゃ楽しかったのでしょう。
痩せて細かった母は、精神的なものもあるけれど、おいしいピザやらアメリカの
食事に幸せ太りしたくらいだから、はじけちゃったんだなぁ。
そのめっちゃはじけた楽しい母と共に、
NYでの楽しい生活が僕の性格を築き上げたのは確かです。
ハロウインでは、仮装して近所を歩き回り、キャンディーをたくさんゲットし
黒人、白人、アジア人、いろんな肌の色の違う友達と仲良くなり
姉は、小学校に入ったけれど、僕は母といっつも一緒に
公園やらスーパーやら興味のある場所へ毎日 出歩いたようです。
母は、よくそのころのことを話してくれました。
「あんたは、ほんとにグズることなく 長い距離 アタシとよく歩いたわよ。飴だの
アイスだので釣ると もっと歩いたし(笑)」
とか
「あんたは、遊びに行ったきり帰ってこないし、外でおっきな声で
マミー○○ちゃんちで、ごはん食べてきてもいい~?と流暢な英語で
家に戻らず、外から聞いてくるのよ」
とか
「あまりにも帰ってこないから、警察に捜索願いを出して探してもらったら
だいぶ離れた公園で、ブランコに乗って、おばあちゃんと楽しそうに
話してたのよ」
とか・・・・
今の僕の性格 きっと、そのころから変わってないと思います(笑)
父に聞いても、姉に聞いても、今の僕に繋がるエピソードしかないです(笑)
母が、日本で 辛い日々に耐えながら生活していたら
今の僕ではなかったでしょう。
母の顔色を見ながら自分はどうすればいいのか きっと考えていたと思います。
けれど、母が決意して
大冒険をしてくれたおかげで、僕は僕の人生を大冒険することができているのです。
自分の意志で選択し、歩き、経験し、楽しかったり、失敗したり、苦しかったり悲しかったりしながら、楽しては、何もないことを学び、経験とは
少し頑張ることなのだと NYでの小さな僕の冒険で知ったのです。
アメリカで 作られた性格の土台ではあるけれど
小学校に入る前に、日本に戻ってきてしまったので
僕の性格の土台はあっても、それを生かす環境は違いました。
幼稚園最後の年長さんの時に担任だった(カトリックの幼稚園)英語の話せる
シスターが(帰国したばかりのころは日本語がままならなかったから)
「この子は、アメリカンスクールのような場所で育ててあげてください」と
言ったようで、それくらい そのシスターからみて僕は日本の学校は違うと
思ったのでしょうね。
ところが今もですけど、当時もアメリカンスクールはとても高い学費がかかるので
僕は そこには行けず、公立の小学校に入りました。
本来の僕の持つ奔放な部分は出せず、窮屈で退屈な時間が多かったです。
多少は、ほかの子とは違う部分もあったかもしれないけれど・・・
小学校、中学校は、あまり本領発揮できず
高校では、違った意味ではじけて よく学校から親が呼び出されました(笑)
その三つ子の魂百までを
発揮できたのは、社会人になって、人と向き合ったときや
自分の足で旅をしたときかなと思います。
窮地に立ったとき
なんとかなる!なんとかする!
これが、僕の座右の銘になったのは、
いろんな場所で窮地に立つことが多かった経験から
なんとかしてきた自信から培ったもの。
今日は、ハロウイン。
もう仮装して飴をもらいに近所をまわらなくなったけれど(おじさんでやってたら怖い)
ハロウインというと 僕がNYで過ごした原点。
幼い僕が見つめた異国の世界は、興味津々の母と歩いた世界。
だから、これからの余生も
元気な限りは、まだ見ぬ世界を見続けたいと思ったのです。
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